これから読書を趣味にしようとしている人に


新宿小説論

新宿小説論

『新宿小説論』(横尾和博著)を読んで -


読書をしてみたいけれど、何を読んでいいのかわからない。そんな人には、良きガイドブックが欲しいところ。そうしたガイドブックとしての機能を十二分に果たしながらも、堂々たる文学論でもある。それも「町と文学」というユニークな視点で、社会論としても十分通用する。

今後、町と文学というテーマで様々な研究がなされるのではないか。そんなことすら予感させる本がある。『新宿小説論』(横尾和博著 のべる出版発行 コスモヒルズ発売)
である。

著者の横尾和博氏は1960年代後半に、新宿で高校生活を送っていた。ベトナム反戦運動で騒然とした中に、横尾氏の青春があった。そんな著者が、「新宿」を舞台にした小説に仮託しながら、新宿について語っている。プロローグで、著者は「新宿小説にはいくつかの類型がある」と述べる。

「ひとつは新宿を快楽のまち、欲望のまちととらえる立場、二つ目は幻想のまちとのとらえかた。三つ目は近未来の廃墟の町、四つ目は人間性が崩壊したまち」

こうした観点から、五木寛之寺山修司から半村良庄司薫さらには大沢在昌馳星周浅田次郎など多士済々な作家とその作品が登場する。とにかく新宿という町の奥の深さ、ある意味では現代日本が抱える諸問題をことごとく内包した町の巨大さを感じさせる書である。

そのような書を、私は湘南新宿ラインの電車の中でも読んでいた。ちょうど、梁石日に関する項目を読み終えたところで「次は新宿です」との車内アナウンスを聞いた。中野方面に用事があるので、新宿で乗り換えなければならない。私は、自分にとって新宿とは何かということを考えながら、一旦、ホームに降りた。

今までに、それ程深いつきあいのあった町ではないにしても、全く縁がなかった町ではない。大学時代、母校の野球の応援に行った後、仲間たちと新宿へ飲みに出掛けた。応援で枯れた喉に冷たい生ピールが心地よかった。いつしか、見知らぬ学友たちと肩を組んで、応援歌を大合唱していた。

卒業して20年あまりたった今も、母校の野球の応援にはよく行くが、友と新宿で杯を酌み交わすことはほとんどなくなってしまった。今となっては、親のすねをかじっていた頃の、気楽な思い出である。まるで大海に木っ端が浮かんでいるような自分の存在である、と中央線のホームの上で思った。むなしいというよりは安堵すら感じる思いである。

新宿とは、大きくそして深い海である。それが『新宿小説論』の読後感でもある。

(本の博物館館長代理・菊池道人)
*この記事はツカサネット新聞に掲載されたものです。